大判例

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京都地方裁判所 昭和49年(ワ)1212号 判決

原告(反訴被告)

教王護国寺

右代表者

岩橋政寛

右訴訟代理人

田辺哲崖

田辺照雄

知原信行

被告(反訴原告)

金勝院

右代表者

北川亮暁

右訴訟代理人

松浦武二郎

松浦正弘

浜本一夫

岡本拓

田浦清

中山俊治

主文

一  被告(反訴原告)は、別紙物件目録記載(一)(2)の土地及び(二)(2)ないし(8)の各建物に立ち入つてはならない。

二  反訴原告(被告)の反訴請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、本訴反訴を通じ、被告(反訴原告)の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告(反訴被告。以下単に「原告」という。)

1  本訴につき

(一) 主文第一項同旨

(二) 訴訟費用は被告の負担とする。

2  反訴につき

(一) 主文第二項同旨

(二) 反訴費用は反訴原告の負担とする。

(三) 原告敗訴の場合仮執行免脱宣言

二  被告(反訴原告。以下単に「被告」という。)

1  本訴につき

(一) 原告の請求を棄却する。

(二) 訴訟費用は原告の負担とする。

2  反訴につき

(一) 原告は被告に対し、別紙物件目録記載(一)(2)の土地部分(以下「本件土地」という。)につき、真正なる登記名義の回復を原因とする所有権移転登記手続をせよ。

(二) 原告は被告に対し、別紙物件目録記載(二)(4)ないし(6)及び(8)の各建物を収去して、本件土地を明け渡せ。

(三) 原告は被告に対し、別紙物件目録記載(二)(2)の建物(以下「(2)の建物」という。他の建物についても同様)を明け渡せ。

(四) 原告は被告に対し、別紙物件目録記載(三)(1)・(2)の各仏像(以下「(1)・(2)の仏像」という。)を引き渡せ。

(五) 原告は被告に対し、金二五〇〇万円及びこれに対する昭和四九年一一月七日(反訴状送達の翌日)から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(六) 反訴費用は原告の負担とする。

(七) (二)ないし(五)項につき仮執行宣言

第二  主張及び認否

一  本訴について

1  原告(請求原因)

(一) 別紙物件目録記載(一)(1)の土地(以下「(1)の土地」という。)は、もと国の所有であつたところ、昭和二二年法律第五三号社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律により、原告が昭和二六年一一月二七日国からその譲与を受け、同二七年一月三一日所有権移転登記を経由したものである。

(二) 別紙物件目録(二)記載の各建物(以下「本件建物」という。)は本件土地上に存在するのであるが、その中、(1)ないし(3)及び(7)の建物(以下「本件堂宇」という。)は明治年間、その余の建物は昭和三九年七月ごろ、それぞれ原告が建築し、その所有権を取得した。なお、本件土地上の堂宇は、徳川時代末期に荒廃、消滅していたのであるが、明治中期以後原告が新たに建て替えて、本件堂宇となつたのである。

(三) (2)及び(4)ないし(6)の建物には、現在原告の関係者が居住し、これを使用しているのであるが、被告は、本件土地及び本件堂宇につき、原告の所有権を否定して被告がその所有者であると主張し、本件土地、建物へ立ち入る意思を表明しており、実行しようとしている。なお、(1)の建物は、昭和四八年五月に原告がこれを除去し、現在は存在しない。

(四) よつて、原告は、所有物妨害予防請求権に基づき、被告に対し、本件土地及び(2)ないし(8)の建物への立入り禁止を求める。

2  被告(認否)

(一) 請求原因(一)の事実は認める。

(二) 請求原因(二)中、本件建物のうち(4)ないし(6)及び(8)の各建物が原告主張のころ建築され、それが原告の所有であることは認めるが、その余は否認する。その余の建物は被告の所有に属する。

(三) 請求原因(三)の事実は認める。

3  被告(抗弁)

(一) 反訴請求原因(一)ないし(八)において被告が主張するとおりの事実関係により、原告は本件土地の所有権を取得しておらず、真実は、本件土地は被告の所有に属するものである。

(二) 仮に本件土地建物が原告の所有に属するとすれば、本件土地建物につき、原被告間に使用貸借契約が成立しているものである。

(三) すなわち、原告が本件土地建物の所有権を取得した段階で、原被告間に、本件土地建物につき、被告が惣寺たる教王護国寺の塔頭寺院として宗教活動を行うことを目的とし、期限の定めのない使用貸借契約が暗黙裡に成立していた。

4  原告(認否)

(一) 被告の抗弁(一)に対する認否は、反訴請求原因(一)ないし(八)に対する原告の認否のとおりである。

(二) 被告の抗弁(二)・(三)の事実中、昭和四〇年以前において、本件堂宇につき、原被告間に、被告が塔頭として宗教活動を行うことを目的とする、期限の定めのない使用貸借契約が締結されたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(三) 本件土地は、本件堂宇の使用貸借契約に伴つてその使用を許したのにとどまり、土地自体を目的とした使用貸借は成立していない。

5  原告(再抗弁)

(一) 被告は、昭和二〇年代後半から二〇年以上も本件堂宇を宗教活動の用に供せず、被告の前代表役員田中清澄、現代表役員北川亮暁は、就任以来一度も本件堂宇に入つたことがないという状態であつた。しかも被告の管理が不充分であつたため、中核をなす本堂が老朽化に加えて荒れはて、大屋根の基礎が朽廃し、全体が波を打つ状況になり、その一部は瓦が約二〇〇枚以上も脱落し、野地板も朽ちてしまい、雨露が直かに本堂内部に侵入するという有様になり、本堂正面の柱も一本が折れてしまい、丸太二本で一時的にようやく崩壊を防いでいるという状況で、破損が急速に進んだ。そして、昭和四八年一月には倒壊の危険があり、本堂は事実上使用不能の状態になつた。

その結果、本件堂宇を被告の宗教活動の用に供するという使用貸借の目的は終了した。

(二) そこで、原告は、昭和四八年一月二六日被告に対し、使用貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

(三) 仮に右契約解除が無効であるとしても、被告は借主の立場にありながら、貸借の目的である本件堂宇のほかその敷地である本件土地についても、それが原告の所有に属することを否定し、被告がその所有者であると主張するに至つた。かかる主張は、貸主・借主間の信頼関係を根底から破壊するものである。

(四) そこで、原告は、昭和五二年九月八日被告に対し、使用貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

(五) したがつて、被告は本件土地、建物に立ち入る権原を有しない。

6  被告(認否)

(一) 原告の再抗弁中(二)、(四)の事実は認めるが、その余の事実は否認する。

(二) 被告は、いわゆる檀家寺ではなく信者寺であつて、本堂に奉置されていた(1)の仏像が本尊で信仰の対象であるから、留守番の僧侶が常住していてこれを管理し、毎月二一日に本尊の扉を開いて参詣者に拝ませ、本件堂宇を宗教活動の用に供していた。

(三) 昭和四八年一月ごろ、本件建物のうちの本堂は多少の破損箇所があつても修繕を施せば、被告の行う宗教活動に充分耐えうるものであつたし、本件土地自体も使用貸借の目的物となつているから、地上建物の使用不能の一事をもつて、敷地である本件土地の使用貸借までも終了することはない。

(四) 被告が本件訴訟において本件堂宇及び本件土地の所有権を有する旨主張したとしても、これまであいまいにされ、判断も困難を伴つた占有権原の法的性質を被告なりに明らかにしただけのものであつて、信頼関係を破壊するものではない。

7  被告(仮定再々抗弁)

(一) 仮に使用貸借契約解除の原因があるとしても、昭和三六年ごろから、原告の役員らが宗教儀式に不可欠な国宝・重要文化財を乱売したことに端を発し、関係寺院間で意見が対立し、被告の前住職田中清澄や現住職北川亮暁が文化財の乱売に反対したことから、その運動を妨害するため、原告は、昭和四七年以降同人らの本件土地、建物への立入りを阻止しておきながら、使用しないから本堂が荒廃したとして、解除原因としている。

(二) 右事実から、原告の契約解除の意思表示は、信義誠実の原則に反し、権利濫用に当たるので、許されない。したがつて、契約解除は無効である。

8  原告(認否)

(一) 否認する。

(二) 原告寺院の財産処分をめぐる紛争は、基本的には、死蔵されていた財物を処分し、それを資金として原告の宗教活動を充実させようとする者と、それに反対する者との対立であり、財物処分を不可とする理由は見出せず、原告のとつた方針は死蔵品の活用として高く評価さるべきであるが、本件訴訟とは関係のないことである。

(三) 田中清澄が本件建物に入居しようとした事実はないし、北川亮暁は、原告と敵対する真言宗東寺派の事務所にするため、原告に本件建物の明渡しを求めたもので、被告本来の宗教活動を目的とするものではない。

二  反訴について

1  被告(請求原因)

(一) 被告は、寺院明細帳に登録された寺院であつて、宗教団体法(昭和一四年法律第七七号、同一五年四月一日施行)三二条一項の「本法施行ノ際現ニ寺院明細帳ニ登録セラルル寺院」に該当し、「本法ニ依リ設立ヲ認可セラレタル寺院ト看做」されて、同法二条二項により法人とされ、又、宗教法人令(昭和二〇年勅令第七一九号、同年一二月二八日施行)附則二項により「本令施行ノ際現ニ存スル法人タル」寺院として「宗教法人ト看做」され、その後宗教法人法(昭和二六年法律第一二六号、同年四月三日施行)附則五項、同法一四条一項により、昭和二八年八月二九日京都府知事から規則の認証を受け、同法一五条により同年九月六日登記をして、同法上の宗教法人となつたものである。

原告は、宗教法人法により、昭和二七年一二月一七日に法人登記を経由して、宗教法人法上の宗教法人となつたものである。当時、宗教法人真言宗東寺派を包括団体とし、原被告ほか関係寺院約三〇〇か寺を被包括団体とするいわゆる包括関係が設定されたが、その後原被告ほか有力関係寺院は真言宗東寺派から離脱し、昭和四〇年に包括関係を廃止した。

(二) 原告の前身はもともと東寺であつて、これは桓武天皇が延暦一三年(西暦七九四年)に建立し、嵯峨天皇が弘仁一四年(西暦八二三年)正月一九日弘法大師に勅賜されたものであるが、天長二年ごろまで東寺と呼ばれ、その後教王護国寺となり、真言宗の根本道場として宗教活動を行つてきた。

被告は、徳治年間(西暦一三〇六年から一三〇八年まで)に後宇多法皇が塔頭一五又は二一か寺を建立されたものの一つで、本尊を安置し、信者寺として宗教活動を行つてきた。

(三) 塔頭が当時から現在にいう法人格を有していたのに対し、東寺は塔頭寺院と別個の人格を有していたのでなく、各法会組織の集合体たる惣寺(現在における包括法人に類するもの)であつて、観念的なものにすぎず、昭和二〇年の宗教法人令以降に法人格を取得し、初めて成立した原告は、厳密には惣寺たる東寺とは別の存在といわねばならない。

(四) 往時の教王護国寺は、塔頭寺院とともに時の権力者によつて厚く保護され、寺領の所有を許され、信者より領地の寄進を受けていた。そして、少なくとも寛文五年には、教王護国寺及び塔頭寺院は御朱印地を有して、それを基礎として宗教活動を行つてきた。

(五) しかし、当時の教王護国寺には、少なくとも明治一二年ごろ以前においては住職は存在せず、塔頭寺院の住職からその長者が選ばれ、運営は塔頭会によつて行われていた。したがつて、原告の境内地、建物等の設備は、もともと各塔頭寺院の共有にかかるものであり、各塔頭寺院の境内地、建物等の設備は、その寺院独自の所有であつた。

被告も、古来からその境内地のほかに所領を所有し、所領にかかる地租等も、当時の守護職より被告に対して課せられていた。

(六) ところが、明治二年の版籍奉還で各藩の封土は人民とともに朝廷に奉還されたが、政府は、社寺領も公領の一種との考えのもとに、明治四年正月五日太政官布告第四号のいわゆる社寺領上知令によつて社寺領の上知を命じ、一方明治六年七月二八日太政官布告第二七二号の地租改正条例をもつて、土地各筆ごとに所有権者の確認等を行い、地券を交付することになつたが、その際、社寺等の私有の証明がないものは官有地に編入された。

その後、旧国有財産法(大正一〇年法律第四三号、同一一年四月一日施行)二四条により、上知処分を受けたり官有地に編入された寺院、仏堂の境内地については、場合により、無償で当該寺院、仏堂に貸し付けたものとみなし、又は、期間に制限なく貸し付けることができることになつたのであるが、更に、昭和一四年四月八日法律第七八号をもつて「寺院等ニ無償ニテ貸付シアル国有財産ノ処分ニ関スル法律」が、続いてこれを全文改正し、昭和二二年四月一二日法律第五三号をもつて「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」が制定公布され、社寺領上地にかかる国有境内地のうち、宗教活動を行うのに必要なものに限り、これを当該社寺等に譲与することとされた。なお、右譲与とは、社寺領上地にかかる国有地を当該社寺等に返還する意味であると解されている。

(七) 被告の寺院明細帳によると、「境内四百五拾三坪九合 官有地第四種」なる記載があるが、これは、社寺領上知令による上知にかかる土地で、地租改正処分等の際、官民有区分がなされた国有の社寺境内地又は仏堂敷地のうち、寺院、説教場敷地に該当するものであるから、旧国有財産法により無償で期間の定めなく被告に貸し付けられていたものであることは明らかである。したがつて、被告は、法律第五三号により、本件土地である右官有地の譲与を受ける地位を有していた。

(八) そこで、昭和二六年ごろ、原被告ら関係寺院が土地の譲与申請を各別にしようとしたのであるが、当時原告が被告を含む三つの塔頭寺院の本山であつたことから、近畿財務局の要望もあり、手続の煩瑣を避ける意味もあつて、協議の結果、各別に譲与申請をすることなく、原告が、その固有の境内敷地のほかに、他の塔頭寺院の境内敷地についても、各寺院に代つて一括して譲与申請をし、譲与を受けた後必要に応じて各塔頭寺院の境内敷地につきそれぞれの真実の所有者である当該塔頭寺院に登記名義を移転することにして、本件土地を含む(1)の土地につき、原告が便宜上その名において譲与申請をし、昭和二六年一一月二七日譲与を受け、同二七年一月三一日原告名義の所有権移転登記を経由したのである。

したがつて、本件土地については、原告の所有名義は形式上のものであつて、真実は被告の所有にかかるものであることは明らかである。

(九) 原告は本件土地上に(4)ないし(6)、(8)の各建物を所有して本件土地を占有するとともに、(2)の建物を占有している。

(一〇) (2)の建物は被告の所有である。

(一一) (1)・(2)の仏像は被告の所有であり、被告はこれらを被告の本尊等として、古来より(1)の建物に安置して宗教活動を行つていたのであるが、原告が右建物を除去した際、被告に無断でこれらを持ち去り、現にこれを占有している。

(一二) 原告は昭和四八年五月ごろ本件土地上の(1)の建物を除去したが、右建物は被告の所有であり、被告の宗教活動の拠点でもあつたし、当時未だ崩壊の危険などなく、幾らかの修繕さえ施せば、将来とも充分使用に耐えうるものであつた。

しかるに原告は、右建物が老朽化のため崩壊の危険に頻し、修繕も不可能であるとの不当な口実のもとにこれを破壊し除去してしまつたのである。

原告の右行為は、被告に対する不法行為を構成する。

(一三) 除去当時(1)の建物と同等の規模構造の建物を新たに建築しようとすれば、一坪当たりの建築費用は百数十万円を下らず、耐用年数を考慮に入れても一坪当たり五〇万円、総額一五〇〇万円を下らない。

したがつて、原告の不法行為により、被告は右と同額の財産上の損害を受けた。

(一四) (1)の建物の破壊・除去により、被告は一挙に宗教活動の拠点を失い、そのため著しく信用を失墜させられ、多大の精神的苦痛を受けた。これを慰藉するには一〇〇〇万円が相当である。

(一五) よつて、反訴に及んだ。

2  原告(認否)

(一) 請求原因(一)の事実は認める。なお、原被告が真言宗東寺派から離脱したのは昭和三八年である。

(二) 請求原因(二)の事実は認める。

(三) 請求原因(四)の事実中教王護国寺に関する部分は認めるが、その余の部分及び同(三)・(五)の事実は否認する。

原告の塔頭寺院の一つである被告の宗教活動は、原告の宗教活動を補完することを目的とする。元来、塔頭寺院は教王護国寺の法要その他の寺務を処弁せしめる定額僧を常住させるべく、その居住の便宜のために建てられたもので、塔頭寺院に居を構える僧侶は、すべて別に自坊として宗教活動の本拠を有するのが常態であり、本山である教王護国寺の宗教活動にたずさわる期間、塔頭寺院に滞留し、本山に出仕していた。そして、何回かにわたつて建てかえられた堂宇は、いずれも教王護国寺においてこれを造営した。

したがつて、教王護国寺を離れて独立した塔頭寺院はありえないのであつて、当初から塔頭に独立した宗教団体性が認められたものではなく、境内の建物が寺院としての礼拝施設をそなえ、そこに入る供僧が教王護国寺の宗教行事、事務等に参加する一方、僧侶や信者の教化を塔頭において行うようになつているので、その段階では塔頭寺院自体も宗教団体となつたというにすぎない。

しかし、荘園のほか不動産の寄進はすべて教王護国寺に対してなされ、塔頭が寄進を受け、それを領有することはなかつた。

原告は、昭和二〇年の宗教法人令によつて初めて生れたものではない。初めに宗教団体である東寺があり、中世に塔頭が成立したときに、東寺と塔頭をあわせた惣寺たる東寺という状況になつたにすぎず、東寺(教王護国寺)が解消してしまつたものではない。

(四) 請求原因(六)の事実は認める。

(五) 請求原因(七)中被告の寺院明細帳に被告主張の記載があることは認めるが、その余の事実は否認する。

(六) 請求原因(八)の事実は否認する。

本件土地は、もともと東寺ないし教王護国寺の所有に属したもので、寺領上知令によつて国有に帰したが、昭和二二年法律第五三号により、同二六年一一月二七日原告が国から真実譲与を受け、所有権を回復したものである。

(七) 請求原因(九)の事実は認める。

(八) 同(一〇)の事実は否認する。(2)の建物は原告の所有である。

(九) 請求原因(一一)の事実は否認する。

被告主張の仏像は存在しない。被告の本尊として置かれていた仏像については、原告所有の仏像を祀ることを、過去において許容していたことがあつただけのことである。

(一〇) 請求原因(一二)中原告が昭和四八年五月ごろ(1)の建物を除去したことは認めるが、その余の事実は否認する。

前記のとおり、(1)の建物は原告の所有であり、被告との使用貸借解消後、その荒廃が甚しく、危険であるので除去したものである。

(一一) 請求原因(一三)・(一四)の事実は否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

第一本訴について

一請求原因事実については、本件堂宇が明治年間原告により建築され、その所有に帰したことを除いては、当事者間に争いがない。

二そこで、本件堂宇の所有権帰属の点と被告の抗弁(一)の事実(反訴請求原因(一)ないし(八)における被告の主張事実)につき、以下に判断する。

1  反訴請求原因(一)ないし(八)中、(一)・(二)・(六)の各事実、(四)のうち教王護国寺に関する部分及び(七)のうち被告の寺院明細帳に「境内四百五拾三坪九合

官有地第四種」なる記載のあることは、いずれも当事者間に争いがない。

2  ところで、反訴請求原因(八)において被告が主張するところの、便宜上原告が一括して譲与申請をする旨の協議のなされたこと、その協議の調つたことについては、証人田中清澄の証言(第一回)、被告代表者北川亮暁の供述中右主張にそう部分は、いずれもにわかに措信し難いし、ほかに右主張事実を認めるに足る証拠はない。

してみると、本件土地を含む(1)の土地がもと国の所有であつたことにつき当事者間に争いがない以上、昭和二二年法律第五三号により原告が国から譲与を受けた場合に原告がその所有権を取得することは当然のことであり(もつとも、前記協議による合意(一種の委任と考えられる。)が存在していたところで、原告が自己の名をもつて所有権を取得することに変りはない訳であるが、その場合には、委任事務処理上その所有権を被告に移転する義務を生じる。)、国の所有以前のことは関係がないように見える。

しかしながら、昭和二二年法律第五三号による譲与は、明治初年に寺院等から無償で取り上げて国有とした財産を、その寺院等に返還する処置を講じたものと解されるのであつて(最高裁昭和三三年一二月二四日大法廷判決民集第一二巻第一六号三三五二頁参照)、譲与を受けた当該寺院と上地により所有権を失つた寺院との間に同一性が認められるか否かは、所有権の帰属に重大な影響を及ぼすものと考えられる。

したがつて、本件土地が国有となる前後の事実関係について検討する必要がある。

3  〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができる。

(一) 古代律令制のもとにおける官寺としての東寺が、大師信仰を中心とした中世寺院へ転化するのに貢献した宣陽門院は、多くの庄園を東寺に寄進したほか、東寺の法会のうちで基本となるものを確立し、それを担当する供僧(のち「十八口供僧」となる。)の組織を整備したが、そのあとを受けた後宇多法皇は、東寺の教学の中心的な行事を担当する学衆の組織を確立するとともに、供僧を最終的に「二十一口」とし、僧侶止住の僧坊を東寺に建立することを立願し、これが東寺の各塔頭(たつちゆう)の建設として具体化した。

中世東寺の寺僧組織(法会組織)は、十八口供僧方・二十一口供僧方(その構成員はそれぞれの塔頭の住職)のほか多くの組織が形成されたが、それらを維持するため、それぞれいくつかの庄園が割り当てられ、上納される年貢や公事(雑税)が組織の運営費に使われ、残る分は寺僧に支給された。そして、その費用で塔頭の建物が順次建設されていつた。

庄園はそれぞれの組織に寄進されるが、中世の東寺は法会組織の集合体(惣寺)であるから、庄園そのものは全体としての東寺の所領ということになり、塔頭が独自に荘園を持ち独立した経済活動を行うようなことはなく、個々の寺僧は組織の決定に基づいて行動しなければならず、勝手な行動をとる余地はなかつた。

金勝院は嘉吉元年(西暦一四四一年)以前の普光院を改称したもので、中世東寺の塔頭の最後のものである。

(二) 東寺の塔頭が建設された土地は、「東寺領」といわれ、東寺の権限が特殊に及んだ「東寺境内」といわれる土地で、古文書の寺領目録の中にも「大宮以西朱雀以東八条以南九条以北」なる記載があつて、東寺境内とみられ、本件土地もこの中に含まれる。

他の多くの寺院にあつては、特定の個人が施主となり、その援助によつて塔頭が建立されたものが多いが、東寺の塔頭に個人的な関係を思わせる史料はない。

(三) その後、近世、近代を経て現在に至るまで、東寺の塔頭の存在形態にかなりの変容が見られるが、中世の塔頭の性格及び存在形態は現在まで継承されてきている。

(四) 明治の初めごろ、金勝院には常住の僧侶もなく、中古の堂宇も転倒して建築物もなくなつたところ、明治六年一二月の一般上地の際、京都府の指示で、元塔頭仏乗院の跡地に移転し、明治一二年六月新たに堂宇が建築されたが、それもその後取りこわされ、本件堂宇は明治二六年九月以降に建築されたものである。

昭和一七年ごろの教王護国寺(東寺)全建物目録には、金勝院の本堂、庫裡その他の建物が記載されている。

(五) 原告が宗教法人法による法人として登記された昭和二七年以降においても、本件堂宇に関する維持費その他の経費は主として原告が負担し、被告の住職も慣例により原告の役職(事務長又は執事)が任命されていたし、昭和四八年になつて原被告の対立が激化するまでは、本件土地建物の所有権は原告に属するものとして関係者の間で認識され、所有権の帰属に関し何らの紛争も発生することがなかつた。

現在、原告の塔頭寺院としては、被告のほかに、観智院と宝菩提院が残存するが、原告の長者(住職)、事務長らの役職がその住職を兼ね、その境内地、堂宇の所有権が原告に属することについて紛争を生じたこともない。

4  証人徳田明本の証言中には、塔頭が所領を有し、寺院明細帳に記載されたものは当該寺院の所有であるとする部分があるが、〈証拠〉により認められる明治年間の金勝院の寺院明細帳には、当時国有地であつたことにつき当事者間に争いのない境内地の記載もあるので、明細帳に記載があるからといつて必ずしも当該寺院の所有物件とは限らないのであるし、前記認定事実に照らして右証言部分は採用できない。

又、〈証拠〉中には、室町期の金勝院が一応惣寺たる東寺とは区分され、一個の法人として自立し、独自の寺領荘園を有し、経済的にもある程度独立していたとする部分があるが、〈証拠〉に照らして採用し難いし、よしんば東寺の塔頭にある程度所領が存在したことが認められるとしても、金勝院の境内ないし本件土地が明治以前に金勝院の所領であつたことを認めるに足りないし、本件全証拠によつてもその事実を認めることができない。

なお、金勝院の寺院明細帳に「境内四百五拾三坪九合 官有地第四種」なる記載のあることが、国から無償で貸与を受けていた主体が法律的な意味で金勝院すなわち被告であることを示すか否かは、本件全証拠によつても明らかでない。むしろ、さきに認定したとおり、明治の初期の一般上地の際に金勝院は仏乗院の敷地に移転したのであるから、その土地部分は金勝院が上地した土地ではあり得ないといわねばならない。

5 してみると、原告が国から譲与を受けた本件土地がもともと被告の前身たる金勝院の所領であつたことを認めるに足る証拠はないこととなり、かえつて、前記当事者間に争いのない事実及び認定事実によれば、宗教団体法(昭和一四年法律第七七号)施行の際(昭和一五年四月一日)、現に寺院明細帳(乙第三号証)に登録されていた教王護国寺と原告とは、その本質及び存在形態において変りなく、実質的に同一性を認めることができ、本件土地は、(1)の土地中のその余の部分とともに明治初期の上地以前において、教王護国寺の所領であつたと認められるのであり、本件堂宇は教王護国寺によつて建築されてその所有に帰し、原告が権利を承継したものと認められる。

6 したがつて、本件土地は、原告が昭和二六年一一月二七日国から譲与を受けたことによつてその所有権を回復したものであり、被告が本件土地の譲与を受ける地位を有していたとする点は認められず、結局、被告の抗弁(一)は理由がないことに帰するし、本件堂宇も原告がその所有権を有するものと認められる。

三次に、被告の抗弁(二)・(三)につき判断するに、昭和四〇年以前において、本件堂宇につき原被告間に、被告が塔頭寺院として宗教活動を行うことを目的とする、期限の定めのない使用貸借契約が成立していたことは、当事者間に争いがないのであるが、前判示事実及び本件建物が全部原告の所有であることに照らせば、本件堂宇の貸借に伴つてその敷地としての使用が許されるほかに、本件土地自体が使用貸借契約の目的となつていたものとは認められない。

(4)ないし(6)、(8)の各建物についても被告寺院の境内敷地たる本件土地上にあり、右建物を使用貸借の目的から除外する特段の事情は認められないのであるが、他方右建物を貸借の目的とした積極的な証拠もないところ、その建築時期が昭和三九年七月ごろであることは当事者間に争いがないし、仮定的にしろ使用貸借の存続を主張する被告が、反訴において原告に対し右各建物の収去を求めていることに照らせば、右各建物についての使用貸借契約も認められないものとするほかない。

四続いて、原告の再抗弁につき判断する。

1  〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができ、この認定を左右するに足る証拠はない。

(一) さきに認定したとおり、原告の塔頭寺院たる性格を有する被告の代表役員(住職)には、慣例により本山たる原告の役職である事務長又は執事が任命されてきていたのであるが、昭和三一年に、それまで包括団体たる真言宗東寺派の管長兼原告の長者(住職)であつた山本忍梁が死亡し、同三二年にその後任として、原告の事務長兼被告の住職であつた木村澄覚が管長並びに原被告及び観智院の住職を兼ねることとなり、それまで住居としていた(2)の建物(庫裡)を出て観智院の建物に移転したため、木村澄覚の弟子で原告から真言宗京都学園洛南高等学校の会計に派遣されている遠山本良が留守役僧として(2)の建物に入居し、ほかに右洛南高等学校に勤務する職員(僧侶)二名が住宅(教職舎)に居住して、いずれも東寺の縁日には原告に出仕し、法要に参加して現在に至つている。

その間、昭和三六年ごろには、田中清澄が原告の事務長に就任するとともに被告の住職となつたが、同人は神戸に遍照光院という自坊があり、老齢でもあつたし、当時はすでに被告の住職は名ばかりであつたことから、同人が本件建物に入居したことはなかつたし、宗教活動として被告の境内地に入ることもなかつたのであり、遠山本良が引き続き住職代理の立場にあつた。

(二) 原告の塔頭寺院には、元来独立した檀家、信徒はなく、信徒は原告を通しての信徒であり、原告に参詣に来る信徒が各塔頭寺院の住職に誘われて人間的なつながりから参詣する程度のことにすぎず、被告の場合も、昭和三二年ごろ以降は、昭和四六年ころまで毎月の二一日の原告の法要の際原告に参詣する者が、その日に限り公開される本堂((1)の建物)に安置してある本尊についでに参詣することがあつたり、原告の信者団体の大師講が行われることがあつたりする程度で、独自の宗教行事、宗教活動はまつたくなくなり、昭和四八年に本堂が除去されてからは、右本尊の参詣もなくなつてしまつた。

(三) 後記文化財処分問題の対立から、原被告が真言宗東寺派から離脱し、昭和四〇年に包括関係を廃止し、その後東寺真言宗なる新たな包括法人が設立されて、原告との間に包括関係が形成されたのであるが、昭和四〇年当時文化財処分に賛成し原告側について北川亮暁が、原告の総務部長をしていた昭和四五年に、原告の文化財売却方針に反対して欠勤し始め、同四六年になつてからは報道関係者に売却リストを公表するなどして原告を非難する発言をし、新聞紙上でも、「東寺の乱売」、「文化財大量流出」、「大きなショック」、「この不祥事」などとセンセーショナルに報道されたことから、北川は、昭和四六年五月一日原告の職員を免職になるとともに寺院総代を解嘱された。

一方、原告の事務長兼被告の住職であつた田中清澄は、原告の住職の選任問題について原告を非公式に批判したことなどが原因となつて、昭和四六年一二月八日原告の事務長を解任された。

そのようなことから、その後田中は被告の住職を退任して、意を通じた北川にその地位を譲ることとし、従来の慣例に反して、原告の役職でない北川が昭和四七年に被告の代表役員(住職)に就任した。

そのころから、田中は真言宗東寺派の管長代務者となり、北川は同派の主事に任命され、責任役員となり、庶務部長を勤める一方、自坊たる単立(宗派と包括関係にないこと)の三宮寺の住職を兼ねている。

そのような中で、北川は、昭和四八年一月一三日から二二日までの間三回にわたり、文書をもつて、(2)の建物に居住中の原告の留守役僧遠山本良に対し、本件建物において真言宗東寺派の宗務所を開設することを理由に明渡しを要求するに至つた。

(四) (1)の建物は、昭和四八年一月ころにおいて、老朽化が著しく、大屋根の基礎が腐朽し、瓦が二〇〇枚脱落し、野地板も朽ちて雨漏りがし、正面の柱も一本が真中から折れ、丸太二本で一時的に崩壊を防いでいたが、壁も落ち、倒壊のおそれが高い状態で、隣接建物及び人命に危害を及ぼすおそれがあるとして、管轄消防署から再三注意されていた。

そのようなことから、修繕も不可能ではなかつたが、費用の面と被告との紛争問題が考慮され、再建の点は後日のこととする判断のもとに、同年八月ごろ原告において(1)の建物を取りこわし、除去した。

2 以上の事実関係からすると、昭和四八年一月二七日ごろの時点において、被告の本堂は荒廃し、被告が本件土地建物で原告の塔頭寺院としての宗教活動を行うことがなくなつてから十数年になるし、将来に向つては、被告は、原告の塔頭寺院本来の目的どころか、本件建物を原告と相対立する宗派の事務所として使用することを計画しているのであるから、被告は、使用貸借に定めた目的に従つた使用収益をすでに終了しているものといわざるを得ない。

3  原告が昭和四八年一月二六日被告に対し、使用貸借契約を解除する旨の意思表示をしたことは、当事者間に争いがない。

したがつて、原告の再抗弁(一)・(二)の主張は理由がある。

五そこで続いて、被告の仮定再々抗弁につき判断する。

1  〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができる。

(一) 原告は、四万坪の広範な境内地を有しながら、財源がなく、維持に困難を来していたことや、原告の経営する真言宗京都学園(現在、種智院大学と洛南高校)の経営が思わしくなかつたことから、昭和三四年ごろより、原告の有する文化財(国宝、重要文化財、重要美術品、未指定品)を売却処分して右資金を捻出する計画が持ち上り、実行に移されて行つたのであるが、真言宗東寺派の被包括団体たる地方の寺院の反対が多く、総本山でありながら、原告は、右計画の実行に支障があつたため、昭和四〇年に包括関係を廃止した。

(二) 昭和四二年ごろからは、学園ばかりでなく、宿泊施設である洛南会館の建設計画も立てられ、数億円の資金を要することとなり、順次文化財が文部省、文化庁、京都大学、京都府、奈良博物館、天理図書館、熱海市の世界救世会、その他個人商などに売却されて行つた結果、予定された資金が得られ、学園及び洛南会館の運営は軌道に乗るに至つた。

(三) しかし、宗派離脱の後も原告内部において、文化財売却の方針に反対する者が出始め、特に離脱したはずの真言宗東寺派と通じていた田中清澄や、売却リストを公表した北川亮暁が解任、免職されて以来、原告側と反対派の抗争は顕著となり、反対派の原告幹部に対する告訴(結果的には不起訴となつた。)、反対派と東寺派との結束、好奇的な報道等が続いたため、原告が東寺に対する一般の信頼回復のため腐心していた矢先、北川の遠山に対する前記明渡し要求書が送付された。

2 さきに四の1において認定したとおり、被告が原告の塔頭寺院としての宗教活動を行わなくなつたのは、昭和三一年に管長の山本忍梁が死亡し、後継者の木村澄覚が観智院の住職となつて移転し、遠山本良が留守役僧として(2)の建物に入居以来のことで、その後田中清澄が被告の住職となつたのも名ばかりであつたのであつて、原告が同人や昭和四七年に被告の住職となつた北川亮暁の立入りを阻止したから被告の宗教活動が跡絶えたのでないことは明らかであるし、右(五の1)に認定した事実関係の下では、文化財の処分問題は、違法性がない限り、元来原告自らが決すべき事項であり、その問題で意見が対立し、原告が田中や北川の行動を心よく思わず、(1)の建物の維持修理に積極的に取り組まなかつたため、同建物の荒廃を早めたとしても、本件土地建物が原告の所有であり、被告が本来原告の塔頭寺院であることを思えば、その故をもつて原告の本件堂宇の使用貸借の解除権の行使が信義則に反し権利の濫用に当たるものとは解することができない。

したがつて、被告の再々抗弁は理由がない。

六結局、被告は本件土地及び(2)ないし(8)の建物について正当な占有権原を有しないこととなり、所有物妨害予防請求権に基づき右土地建物への立入り禁止を求める原告の被告に対する請求は正当である。

第二反訴について

一請求原因(一)ないし(八)及び(一〇)の事実については、本訴において判断したとおりであつて、本件土地及び(2)の建物が被告の所有であるとは認められない。

したがつて、右土地建物が被告の所有であることを前提とする、被告の原告に対する、所有権移転登記手続請求、建物収去土地明渡請求、建物明渡請求はいずれも失当である。

二(1)の建物が原告の所有であつたものであること、及びそれを除去した事情は、本訴において判断したとおりであり、原告が(1)の建物を除去したのは、本件堂宇に対する原被告間の使用貸借契約が有効に解除され、被告が占有権原を失つた後のことであるから、右除去の行為が被告に対する不法行為に当たらないことは明らかである。

したがつて、被告の原告に対する損害賠償請求も失当である。

三〈証拠〉によれば、(1)の建物が除去されるまで、そこに被告寺院の本尊として地蔵菩薩像が安置されていたが、右建物(本堂)除去の際に原告がこれを引き取り、これを保管していることが認められる。

しかし、右本尊が高さ約五尺の立像((1)の仏像)であるのか、それとも座像であるのか、本件証拠上明確でないばかりでなく、それが被告の所有に属することの確証はないし、その取得原因も明らかでない(宗教法人法二条によれば、礼拝の施設を備えることが宗教団体の要件となつているが、右はこれを所有すべきことを意味するのではないし、仏像その他の礼拝の対象の有無は問わないものと解される。もつとも、本尊たる仏像は、それが安置してある寺院の所有であることが多いであろうし、又それが理想ではあろうが、本件の場合、被告が原告の塔頭寺院であり、堂宇が原告の所有に属すること、前記の原被告の従来の関係等を考えれば、必ずしも一般的な場合からの推論はし難い。)。

ただ、本尊たる仏像は、それが被告の所有でなく原告からの借用物であつたとしても、被告が法人として存続する限り、宗教上、被告に引き渡されるのが妥当であろうかとも思われるが、仏像の特定が明確でなく、しかもその所有権を引渡し請求の根拠とする以上、その請求は理由がないといわざるを得ないし、(2)の仏像については、それが(1)の建物に安置されていたことも、原告がそれを持ち去つて占有していることも、いずれもこれを認むべき証拠がない。

したがつて、被告の原告に対する仏像引渡し請求も失当である。

第三結論

よつて、原告の本訴請求を認容し、被告の反訴請求をいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九五条に従つて、主文のとおり判決する。

(堀口武彦)

物件目録

(一) 土地

(1) 京都市南区大宮通八条下る九条町三九九番

雑種地 九万六四六六平方メートル

(2) 右土地のうち別紙図面のイ・ロ・ハ・ニ・イの各点を順次直線で結んだ部分 約一二一七平方メートル

(二) 建物

(1) 京都市南区大宮通八条下る九条町三九九番地所在

家屋番号 同町三九九番の三(主たる建物)

木造瓦葺平家建 本堂 99.84平方メートル

(2) 右同所

(付属建物 符号1)

木造瓦葺平家建 庫裡 151.97平方メートル(ただし、実測148.97平方メートル)

(3) 右同所

(付属建物 符号2)

木造瓦葺平家建 物置 4.96平方メートル

(4) 右同所

(付属建物 符号3)

木造亜鉛メッキ鋼板葺平家建物置 6.74平方メートル

(5) 右同所

(付属建物 符号4)

木造亜鉛メッキ鋼板葺平家建 教職舎 26.67平方メートル

(6) 右同所

(付属建物 符号5)

木造亜鉛メッキ鋼板葺平家建 教職舎 29.68平方メートル(ただし、実測29.64平方メートル)

(7) 右同所

(付属建物 符号6)

木造瓦葺平家建 社 9.30平方メートル

(8) 右同所

(付属建物。ただし、未登記)

軽量鉄骨造鉄板葺平家建 教職舎 33.36平方メートル

(三) 仏像

(1) 地蔵菩薩立像

木造・高さ約五尺

(2) 不動明王座像

木造・高さ約四尺

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